2025-05-07

おしぼり

「おしぼりはいくつお付けしましょうか?」

刹那、私は私を隠そうとした——

晩春はなんと穏やかな気候が続くことだろう。

この日は早起きができたもので、日課とするピアノの練習と直近で演奏するもののおさらいを午前中には終えてしまった。

昼食にレトルトカレーを食み、「こんなに心地よい昼下がりには散策でもするか」と思い立って近くの街へ出向いた。

そうして3時間ほど牛歩で徘徊し、「こんなに気分の良い夕間暮れには甘いものでも買って帰ろう」とひらめいてカフェに入った。

クッキーと、あのアップルパイが美味しそうだ。長い名称を覚えられないので、ショーケース内を指差しながら注文する。すると店員の女性が紙袋に詰めながらこう問うた。

「おしぼりはいくつお付けしましょうか?」

齢三十一の男、この質問が「何名でお召し上がりになりますか?」と同義だと気づくのに時間は要さない。とっさに、本当のことを言ってはならぬ——と強く思った。なぜならそのアップルパイがクリームをふんだんに含み、クランブルの贅沢にまぶされた、あまりにも幸せ溢れるアップルパイだったからだ。言うなれば私の帰りを待つ誰かのために買っていくような代物である。それを自分一人の満足のために持ち帰ろうとしていることを、このディーンアンドデルーカの店員に隠さなければならない。

「ふたつ、お願いします。」

少々間を取ったか。しかし声は凛と響いた。こちらの狼狽は悟られていないだろう。会計後、彼女は優しい笑みをたたえて紙袋をよこした。

店を出ると外はやはり心地よい季節が続いていた。先ほどまでの緊張を振り切るように、私は足早に帰路についた。

砂漠に咲く一輪の花のように、あるいはクラブに流れるショパンのように、はたまたお笑い芸人のラジオに寄せられた恋のお悩み相談メールのように……とにもかくにも質素な私の部屋に到着した絢爛たるアップルパイの姿は異質であった。
しかし、いいのだ。ここには私しかいない。ここでのみ、世間体を繕う必要性から解放される。

Netflixで新着の知らないアニメ映画をかけ、おしぼりで手を拭く。いよいよアップルパイと対峙し、アメリカの子どもよろしく素手で持ち上げ頬張った。そうしようと店で見た時から決めていた。酸味が鼻に抜ける。咀嚼音でいくらかセリフを聞き落としたが構わない。美味しい。

すると、電話が鳴った。慌てて余りのおしぼりを開ける。

「もしもし〜お疲れ様です。……ええ、はい。ええ?本当ですか!?それはそれは!!いや〜おめでとうございます!!」

大切な旧知より、結婚の報告が届いた。

窓から入る風は柔らかく、ほのかに草の匂いがする。新緑まばゆい晩春、この爽やかな季節が好きでたまらない。

新緑まばゆい晩春
小学生の頃、作文の出だしをセリフにするという意表の突き方に憧れた。
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