2024-10-08

猫か?人間か?

理性だとか反省的視点みたいなものが強くない人の方が、音楽家(特に演奏家)には向いているのかもしれない。反省の視点を持ち理性的であることが人間の理想的な姿だと思っていたので、これに気づき受け入れるのに大変時間がかかった。

数年前とある現場でのこと。
同い年の演奏家からある日を境に無視を決め込まれ、はて自分は何をしでかしたのだろうかとしばらく思いふけった。
後日同じ現場にいた方から「あの子は相手が自分より上手(うわて)だと思うと拗ねてああなるのよ」と同じ体験談を聞き、胸を撫で下ろした。大人が無視をするなんてただならぬ理由があるに違いないと思っていたのだけど、全然子どもだったのだ。思えば純粋な人が多いかもしれない。

外形が小学生とか、極端に言えば猫とかなら自由気ままな振る舞いも可愛く思えるものの、人間の大人という外形を帯びた途端にそうはいかなくなる。我々音楽家皆で一斉に猫にでもなりませんか。

同い年で重役をこなすそいつのことを僕は尊敬の目で見ていた。称賛されるべき点は見過ごされ批判は受けがちな難しい立場に彼はいたので、「僕はちゃんと君の実力をわかっているからな」とせめて念じた。念ずるのみで伝えなかったことを今は悔やもう。君は僕に劣等感を抱くようなタマじゃあない。

あの行動の奥深くにある動機は「他人を傷つけたい」ではなく、「自分を保ちたい」だと思う。生きようとするとき、すなわちこの世に自分のスペースを確保しようとするとき、人と人との間に在ればどうしたって他人を押しのけることになる。

パフォーマンスをする者としては、余計な客観視で自分を縛ることなく自由に、猫のようにあれたらと思う。
しかし人と人との間に在る者としては、自分の生きていかんとする意志の暴君っぷりをしかと観察する、人間でありたい。
音楽家としてあるべき状態、一市民としてありたい状態、それぞれが反対すぎて本当にどうしてくれよう。

ジャズピアニスト・佐山雅弘さんの言葉をふと思い出すことがあり、その中の一つに今の自分にとって希望となるものがある。

あれは授業中に佐山先生と生徒数名とで校外へ出て食事をしたときだったか。文脈を覚えていないが校舎へ戻りながら話す中で「反省はしないほうがいいんだよね」とおっしゃった。

先生に教わったわずか数年の印象から想像することしかできないが、その言葉を発したということは元々反省的で、しかし時にそうでなくなることができたんじゃないだろうか。つまり反省を克服したんじゃなかろうか。

佐山先生は一見複雑なことを簡単な概念にまとめ上げるのがすごく上手だった。
大学2年生のとき、苦手だったディミニッシュコードのボイシングについて先生のたった一言の説明が体得のきっかけになった。
音楽に関する雑多なあれこれを、抽象化したシンプルな規則として持っていたのだと思う。抽象化は理性のなすわざであるので、この辺が先生が元来理性的(反省的)な方だったんじゃないだろうかと想像する理由である。

反省を克服するというか、上手く付き合うというか……希望的観測かもしれないけど、これらの思い出がそんな道を照らし出しているように見えなくもないのです。

ある日のアンサンブルの授業でのこと。
演奏が止むと吹き抜けになっている2階からいびきが聞こえてくる。誰かと思ったら佐山先生が居眠りしていた、なんてことがあった。
まんま猫じゃあないか。

とても猫で、とても人間だった。
きっと猫と人間を行き来できる人がいるのだと思う。そうなれたらいいな。

テレビ千鳥には「ネコか?ノブか?ゲーム」という人気企画がある。
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